Teen Vogue

Teen Vogueのインスタストーリーが軽快でそしてメディアっぽい。

性的な特集も多いのだけれど、マジメくさわけでもなく、軽やかに伝えている。これと比べるとVogueなんかでやっているメーガン・マークルがどうしたなどの方が野暮ったく感じてしまう。ひと昔前のメディアの感が否めない。すでに確立された世界の中での新たな話題を伝えるだけだ。

肌感で「今」伝えるべき話題とズレがあるように思う。セレブを取り上げてインスタ映えのする写真を載せるのがメディアではないと思う。今、切り取るべきことを切り取って、みんなの意識の底にあるものを浮かび上がらせることがメディアの役割だと思う。

なので、慣習にとらわれているよりは、軽やかに元気に表現してしまうTeen Vogueはデジタル時代をうまく使っている。っていうことを考えたりした。

つまらないことしか書けない

自分で思うのだけれど、つまらないことしか書けないと思う。広がりがないのだ。

仕事も一応しているけれど、どこかで何もやっていないようにも感じる。もっと好きなものを増やしてみたい。

インセプションAmazonプライムで観直したけれど、ふつうだった。そこに何の不満があるのかと言えば、きっともっと深く考えたいのだろうけど、どこか届かないところに苛立ちを感じるのだろう。それでも何も書かないよりはマシかもしれないと思った。

コールドプレイがDon't look back in anger を歌ったけど

アリアナ・グランデのコンサートの悲劇の後のコールドプレイがDon't look back in angerを歌って、そこにはノエルはいなかった。

けれど、あの曲をみんなが歌えるようになったのはあいも変わらずライブで繰り返してきたからだし、そのたびにOasisファンが全力で歌い続けてきたからなのだと思う。そういうところまで1つの曲が辿りつくというのは奇跡的なことだし、奇跡的瞬間にしか曲はみんなのものにはならない。

なので、OasisOasisファンが世界中でDon't look back in anger を歌い続けてきたことには意味があったのだと思う。もちろん本人たちは好きで歌っていたので、世界のことなんかその時はどこかにいってたのだと思うけど。大義名分よりも自分の感情を大切にしたからよかったんだ。

そういうことだよ。

ノエル・ギャラガーの娘 H&Mの広告に

ノエル・ギャラガーいつも誰かをののしって、それで新聞の見出しを飾り、Oasisここにあり、ということを知らしめてきた。

そのノエルには娘がいるのだけれど、H&Mのデニムラインのモデルに抜擢されたとか。女の子だし、音楽でノエルを越えるのはむずかしそうだし、いいところに落ち着いたと思う。H&Mにどれくらいの価値があるかは知らんが、NYにはものすごくデカイH&Mの店舗がある。渋谷の倍以上あると思う。

ちなみに、ノエルの娘はアナイスって名前。

アメリカ

最近、アメリカが遠く感じる。アメリカの小説を読んだり、映画を観たりしても、作為的なものを感じてしまう。ある種のピュアさをダイレクトに感じることができなくなってしまった。

これっていったいどういうことなのだろう。

SNS時代であらゆるものの距離がちかくなり、うまく付き合えていないのかもしれない。もしくは、自分の中での距離を測る装置のセンサーが壊れてしまったのかもしれない。

エンターテイメントをダイレクトに感じることができないのは、少し寂しい。あこがれのようなものが希薄になっている気もする。でも、実際にはもっと深い構造的な理由がありそうな気配もある。わかってはいるけれど、それについて深く考えようとすると、ぼやけてしまうようにアタマがプログラミングされている。ああ〜つまらん。